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天皇替え玉説
天皇すり替え説
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AB%96%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%99%E3%82%8A%E6%9B%BF%E3%81%88%E8%AA%AC
これから話すことは、私の想像で根拠はあまりない。ただ大室寅之祐といわれる写真と明治天皇がそっくりだったことと、大日本皇道立教会会長、中山忠英は中山家を詐称しているという事実2点からの想像である。
中山家は明治天皇の母である、中山慶子の実家であり、由緒正しい藤原氏である。
明治天皇・明治天皇の母の実家、ついでに明治天皇の子である、大正天皇は知恵遅れだったという噂。この3人にはおかしな話がついて回る。
天皇替え玉説が事実であるとして話を続ける。テレビのない当時、明治天皇の顔をよく知っていた者は父母で、明治天皇の父は維新前に死亡なので無問題。あとは母を黙らせないといけない。
明治天皇は元服前に天皇になっていて、明治になってから結婚している。子供はたくさん生まれたが、成人した親王は大正天皇である。
また、大正天皇は知恵遅れという噂があるが、和歌や漢詩が得意で、見ればわかるけど、教科書に載っているかのようなthe・お手本という感じの超上手な歌である。知恵遅れが作れるとは思えないし、代筆説があるとしても、明治天皇や昭和天皇の和歌はあんまり上手くない。特に明治天皇の歌は幼稚っぽいというか子供が作ったのかと思う歌なので、代筆者がいるなら明治天皇の歌も代筆してあげなよって思ってしまうのである。
大正天皇は会議中、紙を望遠鏡のように丸めて遊んだり、鼻くそを食ったという話を聞いたが、どうして明治天皇の息子は知恵遅れの噂があるのか?
もしかしたら父である明治天皇から大室寅之祐の話を聞いていたのではないだろうか。
もしそうなら大正天皇の話を皆が信じないようにしなければならない。集団ストーカー被害者の話す事実のように、キチガイと思わせるのだ。
大正天皇が死亡すれば、昭和天皇以降は明治天皇を直接知る者はいなくなる。
もうひとり邪魔なのは明治天皇の実母である。
実母の父親は中山忠能で、忠能の日記には「天皇ハ奇兵隊」と書かれているそうで、実家には明治天皇に対し、箝口令も引かれていたのだそうだ。
奇兵隊とは簡単に言うと長州藩の非公式軍隊。奇兵隊の練習場は、山口県田布施の山の上にあり、大室寅之祐の出身地の田布施はここである。
大日本皇道立教会会長の中山忠英は、以前記事にしたのでここでは詳しく書かないが、自称光格天皇の孫だが、光格天皇の親王は次代の天皇になった親王を除き、皆幼少時に死亡していて、民間に下った子供はいないのである。その上中山家を詐称している。
いったいこいつは誰なんだ。
どうして中山忠英は中山家を詐称しているのか?
さすがに明治天皇の両親共暗殺できないので、母の実家では替え玉作戦をした?
中山家の人間の振りをして、天皇替え玉説を隠蔽・擁護などの工作をしていたのではないか?
大日本皇道立教会の教義は、明治天皇の北朝よりも、南朝が正統であるとする教義である。
顧問には大隈重信(佐賀)がいる。フルベッキ群像写真にも登場している。
仮に大室寅之祐が南朝の子孫を騙って天皇になったとしたら、まるで大室寅之祐を正当化して、アシストしているかのような教義なのである。
やっぱり皇統は南朝じゃないとね、大室君が相応しいよ、みたいな。
その教義は中山慶子の実家が言っているということになっているからおかしな話である。
大日本皇道立教会の設立年は明治の終わる1年前というのもタイミングがいい。
また、明治天皇自身も、南朝が正当であると話しているのだ。(おまえは北朝の人間だろ!)
そして、明治天皇替え玉を疑う他の人にたいしては、大室寅之祐は南朝の子孫だから、皇統は続いている問題ないと、替え玉を納得させる必要があったので、大室寅之祐は南朝の子孫ということになっていると思われる。そうしないと暴動起きるし。そういうシナリオを作った者がいたはず。
大室寅之祐南朝子孫説は20年ほど前にネットで見たことがあるが、朝鮮人説は知らなかった。それ以降に出てきたのだろう。
大室寅之祐の母、谷口スエは離婚し、寅之祐を連れ子として大室弥兵衛と再婚、再婚後に生まれた子供は夭逝したという。
なので、大室家が万一南朝としても、血統は断絶しているのである。谷口スエの前夫は地家作造で、この人物も養子といわれているが、地家作造の父は李要蔵、日本名岸要蔵。作造の弟の岸信佑は岸信介と佐藤栄作の祖先らしい。
橋本龍太郎は大室寅之祐の親戚という話もある。フルベッキ群像写真にいる鮫島は、小泉純一郎の父の旧姓とは関係ないのだろうか?
また秀吉の朝鮮出兵で連れられた陶工の子孫、東郷茂徳は、大日本皇道立教会顧問の東郷平八郎と関係ないとあるが本当に?
大室寅之祐の祖先といわれる南朝の光良親王は皇統に名前がない。護良親王には息子がふたりいるが、それぞれ正式に子供はいないようだ。
明治天皇が写真嫌いであったことは、証拠を残さないためか?
昔の人は写真を撮ると魂を抜かれるといって嫌ったと伝わるが、幕末の写真ってかなり残っていますよね。みんな新しいもの好きでノリノリで撮っていたという方が信憑性あるのですが。
写真をとられると魂が抜けるという迷信は本当はなかったのでは?
それか明治天皇の写真嫌いが一人歩きして、誇大に強調された迷信。
ここより下は事実を述べる。
鹿児島県の田布施という地名のお話
ヤマト政権時ヤマト政権直轄経営の倉庫などを全国に設置した。それを屯倉(みやけ)といい、後に廃止された。その当時鳥獣の害から守るタブセ(番人小屋)から来ているのではないかという。
なのでこの説をとると、タブセという地名はわりとどこにでもありそうではある。
推古年間になると、この地方は中国との交易で多くの財力・武力を持つようになる海洋の民の地域だった。
鎌倉幕府が成立すると、鮫島四郎宗家が、阿多郡の地頭に任じられ駿河の国から下って来た。そして阿多北方(田布施)と阿多南方をそれぞれ子供に譲るが、阿多北方は他の人間が所領するようになり、阿多南方は鮫島が所領をつづける。その後島津に組み込まれた。
http://www.m-satsuma.info/pg530.html
1400年代、田布施地域に亀ヶ城築城。まだ田布施城という名前ではない。
鮫島宗政は朝鮮出兵後、海外貿易を始める。南さつま市各地に伝わる太鼓踊りはこの時朝鮮から伝わったという伝承があるが、田布施とは15km離れた地域である。また、鮫島の子孫には中国語の通訳になった者もいた。
1874年、田布施郷と命名される。以前は阿多北方と呼ばれた土地はいつから田布施と呼ばれるようになったのか?
http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kaidou/chronicle.htm
鹿児島県の田布施に朝鮮人部落があるのかは見つけられなかったが、江戸時代以前から日本には朝鮮人部落があった。(東市来町美山のWikipedia歴史参照)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B8%82%E6%9D%A5%E7%94%BA%E7%BE%8E%E5%B1%B1
それは、秀吉の朝鮮出兵時、家族ごと連れてこられた朝鮮人技術者の集落が関係している。
有名なのは李三平。沈壽官(薩摩)。九州で陶磁器製作が盛んなわけはここにある。
ただ、山口県の田布施は、陶工ではなく、政敵として逃げてきた朝鮮の両班らしい。
しかし田布施町のある長州藩では、萩焼が有名だし、田布施という地名が同じということは、やはり陶工の同族が関係していて、移住したのでは?と思うのだが。
タブセとは朝鮮語でどんな意味があるんだろう。
佐賀県佐賀市多布施
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=41201&az=MTU5&lat=32.83026&lon=130.28938&zoom=8&maptype=basic
鹿児島県日置郡田布施村(現南さつま市)
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=41201&az=MTU5&lat=32.83026&lon=130.28938&zoom=8&maptype=basic
山口県熊毛郡田布施町
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B8%83%E6%96%BD%E7%94%BA
鹿児島市高麗町(こうらいまち)は、大久保利通、西郷隆盛を始め、多数の薩摩藩士を輩出している。鹿児島市から南西へ30km以上向かうと、鹿児島県田布施村はある。
隣町、と考えて、遠いだろうか。高麗町は地名が朝鮮名の通り朝鮮人捕虜がいた。
いちき串木野市西島平町に43人、東市来町神之川に10人以上、鹿児島市高麗町に20人以上、計70以上の捕虜がいた。その後迫害に合い苗代川村へ移住。60年後に高麗町の捕虜も2度にわたり苗代川村へ移住している。1700年代になると、苗代川村の住民が増えたため、160人を鹿屋市へ移住させた。そこから15kmほど離れた肝附町新冨には田布施という名字があるそうだ。
高麗町から川を挟んで1kmもない隣には、東郷平八郎の出身地、鍛冶屋町がある。
秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった陶工の里である、東郷茂徳の出身地、鹿児島県日置市東市来町美山は、鹿児島鍛冶屋町から西へ23km。
東市来町美山から南へ23km向かうと田布施村がある。
鹿児島県田布施村から6km南、旧加世田村は小泉純一郎の父の出身地、旧姓は鮫島。
わりと近い範囲から、著名な政治家などを輩出していることはしている。
この朝鮮出兵で捕虜にされた朝鮮人の悲惨な歴史を調べていたら思い当たることがあった。
在日の日本批判である、(いつの時代かなぞの)強制連行や、江戸時代の身分制度エタヒニンの大々的な啓蒙、日帝の文化略奪などは、薩長出身の政治家が主導して流布しているのでは?
薩摩は身分制度が厳しかったという。
秀吉の文化略奪というと出自がバレるので、日帝にすり替えているのだろうか。すり替えてでも日本を今でも非難したいのだと思う。
あと、天皇は朝鮮人とか、イルミナティのトップとか、大室寅之祐が朝鮮人なら納得の説であり、皇室・政治家・実業家などなど田布施を通じた一族郎党と思えば、この閉塞した世の中もなるほどなあ。
大久保利通は日本人だったのかなあ、もし祖先が捕虜だったら日本を恨んでるよなあ。その子孫という麻生太郎はどうなのだろう。替え玉してるとするなら、麻生妹は大室寅之祐の子孫に嫁いでいて同族婚だ。それに麻生は日韓トンネル推進者であるし、ユダヤとも婚姻関係がある。
しかし山口県の田布施には悲壮感はないんだよな。
また、日本の文化破壊の悪評のある廃仏毀釈は全国的であり、奈良や京都など大きなところは被害も大きかったが、破壊がひどい地域で思い出すのは薩摩土佐だ。
鹿児島は一時寺が全てなくなったという激しいものだった。また、高知県も四国の中で一番被害が多い地域であった。山口県では維新前夜から奇兵隊の仏像破壊、神罰といって僧侶を殺害するなどがあったらしい。「江戸時代の仏教は幕府権力と結びつきが強すぎたため、『廃仏毀釈は新時代建設のための反体制運動だった』という視点から見る必要もある」
https://www.news-postseven.com/archives/20170829_603925.html/4
明治政府は僧侶に対して「肉食妻帯勝手なるべし」と、わざわざ命令している。勝手にやれ、ということだ。今の坊主が生臭くなったのは薩長のせいである。
明治新政府=朝鮮人捕虜の末裔は、なぜか仏教を憎み神道を優遇した。山口県の田布施には神道系?の宗教施設が多く集まるのだという。大日本皇道立教会からはその後、PL教団、山陰神道が生まれている。
メーソンの入会資格には、宗教に入っていることが必要だそうだ。
私の家はもともと毛利家の家臣で萩に住んでいた。(中略)曽祖父は毛利家本藩の直参だったのだがあまり格の高いものではなかったようだ。しかし、いまから考えると当時の革新派で毛利藩が九州に出兵した時などはその攻撃軍に加わっている。そんなことで明治維新の後は島根県の県令になった
と書いている。
もともとは萩にいた一族だったのだ。しかし、九州出兵に参加しているなら朝鮮出兵より古い家である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%AF%9B
佐藤信寛(岸信介・佐藤栄作の曾祖父)は、松田松陰に兵学を授け、フルベッキ群像写真にいる、井上馨(井上聞多)・伊藤博文・木戸孝允(桂小五郎)と親交があったという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%AF%9B
安部元総理が皇室の男系男子を推進していたのは、自分のルーツと同じ田布施の皇室を守りたかったのではないか?
反対に女性宮家を推進した小泉純一郎は、薩摩ルーツなので、山口県田布施男系維持は自分に益がなかったのか?
朝鮮人捕虜は技術者たちであった。その子孫たちは有能であるのだと思う。過小評価の工作にはのれない。
最後に森永製菓の創業者、森永太一郎の出身地は佐賀県の伊万里市である。
森永は安部元総理の夫人の実家である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E5%A4%AA%E4%B8%80%E9%83%8E
フルベツキ写真
カラー
フルベツキの息子の下にいる人物は大室寅之祐といわれる。この人物を初めて見たが、本当に明治天皇に似ていて驚いた。他のサイトでわざと大室寅之祐の顔の拡大写真を横に拡げる加工してある写真をあげて、大室寅之祐と明治天皇は似ていないとの主張もあったが…。明治天皇は大室寅之祐と入れ替わった与太話はデマと思っていたが。
明治天皇の父孝明帝は明治維新の前、偶然にも天然痘で死亡し、その子の明治天皇が明治維新後即位したこともあり、孝明帝暗殺説は以前からある。
勝海舟
坂本龍馬
有名な龍馬の写真は細面だが、いろいろな写真を見るとやや顔は広い。
睦宗光
写真の方が顔が大きいが整った顔
「一葉の写真が伝わっている
慶応元年2月中旬から3月18日までの間に、長崎へ集結をかけられた各藩の勤皇党は、西郷南洲翁及び勝海舟と共に、世界の情勢に明るい、オランダ人宣教師フルベツキ博士を訪問した。
大隈重信・副島種臣ら門下生と共に、日本の統一をどうしたら良いか、王政復古は、どうなってゆくのかをフルベツキ博士を交え相互して議論し合った。
この写真は、写真術の祖、長崎大村出身の写真家、上野彦馬の写真スタディオでフルベツキ博士の子どもも交え、和やかな雰囲気で記念撮影されたものである。
明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載したが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介された。
このため現在まで分からなかったのである。
また、この写真は、宗教記録として、フルベツキ博士が所持し、絶対に手放さなかったものを、戸川残花の強い要望により借り受けたものである。」(引用)
致遠館Wikipedia
宗教記録の写真って、メーソンのことなのでしょうか。
たぶん、勝海舟はアメリカにいったときに友愛されちゃったんだろうなあ。
解説を読むと、日本の統一と王政復古を議論し合う真面目な勤王の志士で、当時は日本を支配してやろうという感じではなかった?それとも被差別部落の苦しみを晴らそうと奮闘していたのだろうか。当時の人達が何を考えていたのかはわからない。
この写真を見ると、西郷も桂小五郎も勝海舟も坂本龍馬もみんな知り合い?!坂本龍馬主導の薩長同盟とは嘘っぱち?と騙された気持ちになりますね。明治維新の真実とはどこにあるのでしょうか。
確かに坂本龍馬はいろいろ動き回っているだけで何も成し遂げてなく、船を2艘沈没させただけ。その莫大な金もユダヤから出てたのかしら。
坂本龍馬記念館へ行って写真を見たとき、有名な竜馬の写真は細面だが、他の写真は以外と平面顔でエラが張っていると思った。昔の人もエラが張ってる人いたんだな、と印象に残っていた。
しかし、仮に坂本龍馬が朝鮮人としたらどうか。妙に薩長の田布施周辺人物と仲が良かったり、親戚の岩崎弥太郎は維新後、三井財閥の創設者になった。
秀吉の朝鮮出兵時、土佐の長曽我部元親も戦いに行き、捕虜として医師を連れ帰っている。
https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/rekishi/re1102.htm
その子孫は誰か?
高知で捕虜となった経東(きんとん)の弟子は和歌山出身で、布師田村(ぬのしだむら)に住んでいた。田布施となんか字が似ている。
土佐には秋月種信(朴元赫)という捕虜もいた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E4%BF%A1_(%E5%95%86%E4%BA%BA)
紀州藩儒には、李さんという名字がいたそうだ。
https://name-power.net/fn/%E6%9D%8E.html#%E3%83%AA
海援隊で坂本龍馬の右腕だった陸奥宗光は紀州藩士だ。何か関係はないのだろうか?
『日本の真相!知らないと殺される!!』
https://nawa-fumihito.com/Funase-07.html
マインドコントロールの方法のひとつに、肯定意見を並べ続けて後半で否定意見を出すと、聞いた人は否定意見を信じる。
逆に考えるとわかるが、最初に否定意見を出してから肯定意見を出すと、聞いた人は肯定意見を信じる。
大日本皇道立教会
以前のWikipediaの記述
2022.8.15現在の大日本皇道立教会のWikipediaは記述に誤りがあり信憑性にかける。
他のWikipediaと整合性が取れない箇所がある。
第119代光格天皇の孫にあたる中山忠英(父親は光格天皇の第六皇子で、中山家に臣籍降下した中山忠伊)が光格天皇が目指した「四民平等の世、天朝御直の民」を実現し、
①子供とされる中山忠伊が親より先に生まれる不思議。ちなみに光格天皇の第六皇子は4歳で死亡。光格天皇の皇子は8人いたが、第四皇子1人しか成人していない。
中山忠伊1756ー1809
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%AE%B6
光格天皇1771ー1840
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87
②中山家のWikipediaを見ると、中山忠英は中山家の当主にはいない。大日本皇道立教会設立は1911年なので、中山忠伊の晩年に子供が生まれたとしても、その子は100歳以上になるのだが。。また、中山家は藤原氏で代々続く家柄であり、明治天皇の母の生家である(忠能の次女)。なので光格天皇との関係が濃いかは?である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%AE%B6
中山忠英の猶子は孫文というが、、、
黎明会
https://reimeikai0031.or.jp/message/
ここに書いてある中山家の経歴めちゃくちゃなんですが。
ネットで見かける天皇は李家などは、元ネタはここからと思う。現在の北朝を否定し、南朝が正当と考え教育を行う組織がいた。児玉誉士夫は大日本皇道立教会設立年に生まれているが、2022年現在のWikipediaには1913年解散とあり、どちらが正しいのかわからない。児玉はCIA工作員で右翼という胡散臭い男。岸信介、笹川良一と共に国際勝共連合の構成員。
想像ですが、光格天皇の子孫及び中山家の実在の人物を騙る中山忠英(出生不明)が会長となる、大日本皇道立教会を明治44年に設立。顧問などに大隈重信らがいるが、光格天皇の孫という嘘に騙されたと思われる。ネットもなかったし。現在のWikipediaに記載されてる幹事長頭山満、幹事は梅屋庄吉、内田良平の3人は、皆大アジア主義者である。孫文と関わりがあったのも頷ける。尊皇云々の教義を隠れ蓑に外国と関わる思想団体で、後に児玉誉士夫が加入するのもこういった大アジア思想からか。大日本皇道立教会に加入したことで表向きは右翼という思想にも繋がる。全くの偏見ですが児玉は朝鮮人に似ている。日本で生まれたとあるが、当時日本領だった朝鮮へ渡っている。父親が死んだくらいでは、朝鮮に親戚や当てがないと、なかなか行けないよなーと思うのですが。右翼は朝鮮人がやってる。この大アジア主義が癌な気がする。大日本皇道立教会では、南朝が正当とするということは、おそらく国家神道に反対していたのだろう。それで創価学会初代会長は、神札購入を拒否したという理由で特攻に逮捕され獄死した。ネットでやけに国家神道はカルトと主張する工作員がいるのは、こういった経緯で国家神道が滅んだ今もしつこく国家神道=カルトと教えている団体があるだろうことが理解できた。
児玉の事務所は東京・銀座塚本素山ビル3Fで、塚本素山は創価学会初代顧問。
塚本素山ビルWikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%B4%A0%E5%B1%B1%E3%83%93%E3%83%AB
1949年頃米軍の情報関係者(CIA?)の仲介で児玉誉士夫と知り合う。
まとめると、尊皇の名の元に大アジア主義を進め、朝鮮人・中国人を仲間にしながら(戦後は在日を取り込んだと思われます)大きくなった教団があり、一方で児玉を通じ国際勝共連合とも関わり、大アジア主義は形骸化し、現在の保守は実は統一教会だった、日本人の金と女は朝鮮に送れ、みたいなわけわからんことになっているのだと思われます。
大日本皇道立教会のメンバー
<芳野朝廷研究会>WS/041011検索=この写真は大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)秋月左都夫第3代副会頭(前列中央、オーストラリア大使・宮内省御用掛・大正6年読売新聞社社長・正3位・勲1等)を中心にして門下の方々を写したものです。後列右から2人目の人が若き日の児玉誉士夫氏です。同じく後列左端に創価学会(設立当初は創価教育学会)創立者牧口常三郎氏がおられます。
設立当初の創価教育学会は、元々大日本皇道立教会の教旨・目的を根本として国民に新たな皇道を教育する団体として結成されました。(同WS)
https://sudati.iinaa.net/senjika/senjika13.html
安部元総理襲撃事件
3時間後に撤去されるビル屋上の簡易テント
赤丸内の白い台形のような簡易テントのようなもの
3時間後の映像では撤去されている。矢印の先の建物ドア開いている。
検証動画
https://youtu.be/Q-9ZILHqmkE
安部元総理の体内から銃弾は発見されていない。
銃創は首から心臓へ向かい致命傷となった。
「首付近に2つの銃創」「弾は心臓に達していた」安倍元総理 凶弾に倒れる
https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_15605.html
自民党の安倍晋三・元総理(67)が奈良市西大寺東町で街頭演説中、銃で撃たれ死亡した事件で、治療にあたった病院が記者会見をしました。
銃弾は心臓にまで達していたということです。
8日午前11時半ごろ、自民党の安倍晋三・元総理(67)が奈良市西大寺東町で街頭演説中、男に背後から銃で撃たれました。
警察は奈良市大宮町に住む山上徹也容疑者(41)を現場の路上で取り押さえ、殺人未遂の疑いで現行犯逮捕しました。
安倍元総理はその後、ドクターヘリで奈良県立医科大付属病院に搬送されましたが、午後5時3分に死亡が確認されました。
病院によりますと、銃創は体の前面に2ヵ所あり、貫通したであろう傷口も左肩の前面にあったということです。
また死因は心臓に銃弾によってできた穴から、大量に出血したことによる失血死だということです。
安倍元首相銃撃 首に2つの銃創「手術中に弾丸は体内では見つかっていない」病院が会見
https://dot.asahi.com/wa/2022070800102.html?page=1
安倍晋三元首相が銃撃され、死亡した事件。安倍元首相の治療にあたった奈良県立医科大学付属病院が、8日夕方、会見を開いた。銃弾による傷は、心臓に達していたという。
【写真】銃撃直後の現場の様子
安倍元首相が撃たれたのは、近鉄大和西大寺駅の北口で参院選の応援演説をしている最中だった。銃弾に倒れた安倍氏は現場から病院へ搬送され、治療を行っていたものの、17時3分に亡くなった。
安倍元首相の治療にあたった同大付属病院の福島英賢教授によると、安倍元首相の死因は、心臓と、胸部の大血管損傷による失血死だったという。前頸部に2カ所銃創があり、その傷の深さは心臓に達し、心室に穴が開いた状態だったという。
「心臓の傷自体は大きなものがあった」(福島教授)
さらに、福島教授は「左肩の前部に射出口のようなものがあったそこから1発の弾丸が体外に出たのではないか」と話した。一方で、もう1発の弾丸については、「手術中に体内では見つかっていない」とした。
容疑者が使用したのは手製の銃とみられており、現場の目撃者によると容疑者は演説中の安倍元首相の背後から近づき、2回発砲したとみられる。また一部始終をとらえた映像からは、一発目の銃声の後、安倍元首相が後ろを振り向くような様子も映っていた。
病院の会見によると、安倍元首相は12時20分に救急搬送され、その時点では心肺が停止し、重篤な状態だったという。福島教授は「搬送時からかなり厳しい状況が予想された」と話した。総勢20人態勢で、止血や大量の輸血をするなどの処置を施したが、蘇生にはいたらなかった。
奈良県立医科大学付属病院の会見の様子(撮影・唐澤俊介)
「止血がコントロールできた所もあったが、大量に出血しており、すでに血液が凝固する力を失っている状態でした。ある程度大きな血管の止血はできたものの、完全に止血をできたとはいえない状態。残念ながら心拍は再開しませんでした」(福島教授)
福島教授とともに会見に臨んだ吉川公彦病院長は「病院としては最善を尽くしたが、非常に残念」と話した。(本誌・唐澤俊介)
※週刊朝日オンライン限定記事
2022.8.19追記
安倍元首相銃撃事件「ビル屋上にスナイパー小屋」→誤り。動画やツイートが拡散、当事者が法的措置を検討
https://www.buzzfeed.com/jp/keitaaimoto/abe-nara-fc
しかし、同ビルを管理・運営する「三和住宅」(奈良市)はBuzzFeed Newsの取材に、白っぽい物体は「排煙ダクトの清掃作業などに使っていたテント」と説明した。
中央対外連絡部トップの劉建超
中共国際委員会