http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm
(最新見直し2007.1.2日)
グラバーのフリーメーソン的動きに関心を持つ者は、フルベッキにこそ注目すべきであろう。彼の方が正真正銘のシオンの議定書派エージェントとしての黒幕であり頭脳であった可能性が強い。ネオ・シオニズムから見て、グラバーが軍需商人として動いたとすれば、フルベックは精神指導の面での功績顕著と云うべきであろう。グラバーが幕末維新で燃え尽き破産したのに対して、フルベッキは新政府に重用され本格的に活動し始める。この経緯を見れば、どちらが本筋か自明であろう。
2007.4.23日 れんだいこ拝
【フルベッキの履歴書】
フルベッキの正式名は、グイド・H・F・フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck)である。1830年、オランダのザイストに生まれる。両親は敬虔なルター派の信徒とされているが、正確にはオランダ系ユダヤ人でありいわゆる改宗ユダヤ人系であると思われる。モラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校で蘭・英・独・仏語を習得している。
ユトレヒトの工業学校で機械工学を習得し卒業。1852年、22歳の時、アメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働いた一年後にニューヨークに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働いている。この頃、ハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えに感化されている。その後コレラにかかり重症となるが、この経緯で宣教者になることを誓った。
1855年、26歳の時、ニューヨーク州のオーバン神学校に学んで敬虔なキリスト者となった。この頃、日本は1854(安政元)年に日米和親条約を結び、1858(安政5)年に欧米諸国と通商条約を結んで開国した。米国改革派教会が日本への宣教師を派遣することになり、フルベッキがそれに応募し選抜された。この時派遣された宣教師は3名であった。ブラウン、シモンズは神奈川に入港し、フルベッキは、オランダと関係の深い長崎を宣教の地として選んだ。ところで、米国改革派教会とはそも何者ぞ。改宗ユダヤ人の秘密結社的宣教師組織ではなかろうか。彼らは、キリスト教宣教師というふれこみで活動するが、それは表向きの顔で実はシオンの議定書派の世界戦略に基づく各国各地攻略の尖兵的使徒であった。
29歳の時、生涯の伴侶となるマリアと結婚し、日本伝道に旅立った。1859(安政6)年暮れ、上海から海路で来日し長崎に到着、宗福寺に住むことになった。長崎の第一印象をフルベッキは次のように述べている。
「日の出とともに、私の目の前に展開してくる美しさを、私は記述するすべをもちませんでした。私はヨーロッパでもアメリカでも、かつてこのような美しい光景を見たことはありませんでした」。
翌年1月、マリア夫人は女児を出産し、エマ・ジャポニカ・フルベッキと名付けたが数日にして夭折した。その後幾人かの子供を儲けているようである。
フルベッキの仕事は、長崎の家塾で子弟に英語を教えることであった。工科技師の経験もあるフルベッキのもとに科学技術を学びに来る者もあった。そのうち、フルベッキの教育活動が評判になり、徳川幕府経営の洋学所(のち、済美館、広運館と改称)に教師として採用されることになった。そしてまた、佐賀藩経営の藩校致遠館にも出講することとなった。フルベッキは、語学(英、仏、蘭、独)のほか政治、天文、科学、築城、兵事の諸学を講じている。
フルベッキは、次のように述べている。
「私は二人のごく有望な生徒をもった。それは副島種臣と大隈である。かれらは新約聖書の大部分を研究し、アメリカ憲法の大体を学んでしまった」。
1860(万延元)年、キリスト教布教のかたわら塾を開いて日本の青年たちに英学を教える仕事を始めた。禁教下の日本では表立っては布教活動はできなかったが、幕末維新、明治維新の俊英を育てたことが注目される。この時に、「幕末志士の集合写真」が撮られている。後年明治新政府の指導的役割を果した群像がフルベッキの下に集結していたことが判明する。これにつき後で検証する。こうして、1869(明治2)年に明治新政府に招請されるまでの10年間を長崎で過ごした。
1869(明治2)年、明治政府に招かれ上京、お雇い外国人となる。政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの1877(明治10)年までの8年間を政府の政策ブレーンとして活躍した。日本在留中、オランダ国籍を失ったが、政府の許可を得て、日本人同様の特典が与えられた。東京でのフルベッキは多方面で活躍した。
この間、大隈らの推薦で開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。これにつき、太田龍・氏の2006.3.26日付け「時事寸評№1628」が、「フルベッキを頂点とする、明治初年の数百人の御雇外国人は、ほとんどユダヤ=フリーメーソン 東京帝大以下の日本の高等教育機関はフリーメーソンの巣であった」と題して次のように指摘している。(れんだいこ責編集)
月刊「猶太(ユダヤ)研究」(国際政経学会機関誌)、昭和十七年十一月号、昭和十七年十二月号。ここに久留美山(筆名) 「高等教育に於けるユダヤ主義を排す」(連載一、二回)と言う、計二十頁ほどの論文が掲載されて居る。この論文は、立花隆著「天皇と東大」(文藝春秋社)、と言う近刊大著を読むに当って、是非、参照されなければならない。
「明治初年大学南校以来フリーメーソンの支部のような格好になって居る」
「明治5年から皇国の教が負けて西洋崇拝の教育となって居る。つまり明治初年数百名の御雇外人は英米独仏等の国籍には分かれて居たが大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであって内心は一体となり日本をインドやマレーのやうにユダヤ人の奴隷国とする考えであったのだ」。
「英国公使パークス初め外国使臣の多くはユダヤ人であった。大学南校教頭フルベッキはパークスの叔父ギュツツラフといふオランダユダヤ人に東洋の話を聞いて日本へやって来たユダヤ人であった」。
「それが英米独仏等の国籍を以て偽装した十六の同類を以て大学南校を我物。法律、経済、哲学の三原論をユダヤ人の都合のよいもののみを以て固め日本の大学をまだ物心付かない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ」。
「斯くして国際ユダヤ人は政府大学に巣食って帝国大学は遂にユダヤの秘密結社フリーメーソンのロッジのような形になった」。
「北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセツのフリーメーソンのグランド・マスターであったこと」。
(『猶太研究』昭和十七年十二月号、三十三頁~四十一頁)
ここに記述されて居る内容はその通り。しかし、昭和十七年、大東亜戦争下に於てさえ、ユダヤフリーメーソンに対する心理思想戦を遂行し続けた国際政経学会は、「孤立無援の状」(『猶太研究』昭和十七年十二月号三十七頁)にあったのである。
「猶太研究」昭和十七年十、四十二頁~四十九頁。岩越元一郎「ホッブス哲学と日本」。これは、今、の日本人にとって重要であろう。 「明治維新以来、日本にもこのホッブスの哲学が侵入して来た」(前出、四十七頁)、とある。
「この大東亜戦争の第一義は日本人の頭に侵入したホッブス流の国家観、戦争観、人間観を一度一掃しなければならない」(前出、四十九頁)。
「猶太研究」(昭和十七年十一月号、三十六~四十一頁)倉地正晤「ユダヤ人の性格を衝く」。これも重要な論文であろう。 「……即ち彼等ユダヤ人は、究極的な自由とした――羊の群れの中に居住する狼の自由――を物にせんが為に、非ユダヤ人を魔術に陥れて、その有機的結合が正に破壊さるべき防柵であり、排除すべき足枷であると妄信せしめるのである。」(前出、三十九頁)
これこそ、今の日本人が直面して居る状況そのものに他ならない。(了)
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi
その後、太政官顧問となり、各国の法律の翻訳や説明にあたった。
1873年、政府法律顧問に就任。フルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立がある。フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があった。
この頃、フルベッキは、大隈重信にBrief Sketchを手交している。同書は、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白しており、これが岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。岩倉はフルベッキの提案であることを隠匿し、フルベッキも自身の業績について殆ど口外したことのない陰の人物となった。
1871(明治4).12.23日、明治政府が廃藩置県を断行した直後、岩倉具視を団長にする遣外使節団が派遣された。である。使節団は、1873(明治6).9.13日に帰国し、約1年10ヶ月かけて米欧12ヶ国を歴訪した。使節団の目的は第一が、条約締結した各国の元首に国書を捧呈、第二に条約改正の暫時延期を含めた改正交渉、 第三に欧米諸国の制度・文物の調査・研究であった。その内第二は最初の米国で失敗し、結局第三が最重要となった。 この調査結果を踏まえて明治国家の骨格が形成された。
使節団のメンバーは岩倉以外に副使として大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳ら48名の使節団に加えて団琢磨・ 中江兆民・津田梅子ら留学生59名の計107名(平均年齢30歳) が横浜から出発した。
1877(明治10)年、米国長老派教会の医療伝道宣教師ヘボンの流れと、米国オランダ改革派教会のブラウンの流れが統合し、中央区築地に東京一致神学校が作られ、ヘルベッキも招かれた。1887年、現在の白金の地に移転して「明治学院」となり、初代総理にヘボン、理事長にフルベッキが就任した。
1878(明治11)年、旧約聖書翻訳委員となる。この頃、宣教師として日本各地を伝道して歩き、余暇には数々のキリスト教入門の書を出版した。「人の神を拝むべき理由」もその一つである。
1886(明治19)年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学教授、明治学院理事会議長などを歴任した。 明治学院に学んだ島崎藤村は自伝小説「桜の実の熟する時」の中で「白髪の神学博士」フルベッキのことを書いている。
1887(明治20)年、明治学院の神学部教授に就任する。は、"A Synopsis of all the Japanese Verbs. with Explanatory Text and Practical Application"という日本語の動詞活用の本を横浜Kelly & Walshから出版している。
1887(明治20).12.31日、旧約聖書の日本語訳(The noted translation of the Old Testament "psalms")が完成した。この中で「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている。
1898(明治31)年、赤坂葵町で心臓発作のため急逝(享年68歳)し、青山墓地に葬られた。
参考サイト、「メ-ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」、「多田 茂治の 幕末の冒険商人-グラバーの生涯」。「近代日本とフルベッキ」、加治将一「幕末 維新の暗号」(祥伝社)。
2007.4.22日 れんだいこ拝
【フルベッキ写真】
【「フルベッキ写真」検証】
さて、幕末維新の志士を集合せしめた貴重映像として知られる「フルベッキ写真」を検証する。この写真は、日本の写真の開祖と云われる上野彦馬氏のスタジオ撮影による「フルベッキと教え子達」とされており、被写体全員に氏名が書き込まれている。
フルベッキ親子を取り囲むようにして、次の人物が確認できる。 |
.勝海舟 | 2.中野健明 | 3.中島信行 | 4.後藤象二郎 |
5.江藤新平 | 6.大木喬任 | 7.井上肇 | 8.品川弥二郎 |
9.伊藤博文 | 10.村田新八 | 11.小松帯刀 | 12.大久保利通 |
13.西郷隆盛 | 14.西郷従道 | 15.別府晋介 | 16.中村宗見 |
17.川路利良 | 18.黒田清隆 | 19.鮫島誠蔵 | 20.五代友厚 |
21.寺島宗則 | 22.吉井友実 | 23.森有禮 | 24.正岡隼人 |
25.陸奥宗光 | 26.中岡慎太郎 | 27.大隈重信 | 28.岩倉具綱 |
29.ウィリアム | 30.フルベッキ | 31.岩倉具定 | 32.高杉晋作 |
33.横井小楠 | 34.大村益次郎 | 35.桂小五郎 | 36.江副廉蔵 |
37.岩倉具経 | 38.岩倉具慶 | 39.広沢真臣 | 40.明治天皇 |
41.岡本健三郎 | 42.副島種臣 | 43.坂本龍馬 | 44.日下部太郎 |
45.横井左太平 | 46.横井太平 |
「フルベッキ写真」は真偽曰くつきの代物であるが、丹念に検証していくと、書き込まれた人名と実在人物が次々と一致する。例えば、岩倉具視とその息子の具定(ともさだ)、具経(ともつね)、佐賀藩士の江副廉蔵、中野健明、大隈重信等々ははっきり本人であることが判明している。
驚くべきは、当時のいわゆる開明派にして幕末維新、明治維新の推進勢力となった薩長土肥の主要志士、商人、明治天皇、公家の岩倉具視父子、幕臣の勝海舟まで勢揃いしていることである。写真順に主なところで勝海舟、後藤象二郎、江藤新平、品川弥二郎、伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、黒田清隆、五代友厚、寺島宗則、森有禮、陸奥宗光、中岡慎太郎、大隈重信、高杉晋作、横井小楠、大村益次郎、桂小五郎、広沢真臣、副島種臣、坂本龍馬等々が確認できる。本人映像かどうかはやや不明であるが、どうやら本人らしいと推定されている。
これらの人物が一同に会した経緯が次のように解析されている。2005.9.12日付けの「明治維新関連の写真」は、「フルベックの写真」が撮られた事情について貴重証言している。関連するくだりを転載しておく。
資料に残されていない一枚の写真が実証する歴史的背景(大意)
徳川末期の幕府は第一・第二次征長の件、参勤交代復帰の件、長州(山口県)に居る京都の五公卿(東久世通禧・三条實美・三条西季知・壬生基修・四条隆謌)を江戸に移送する件等々幕府は幕命を発令した。
薩摩藩の最高司令官西郷南洲翁は熟慮し、この五卿は王政復古に重要な人物であり、朝廷に復職させ、我が日本の統一をしなければならないとして、これら事件に対処すべく、新たに各藩の勤王党の連合を計画し、長崎に集結をかけるため大久保利通・吉井友実等がアドバンスパーティとして遊説をはかり、集結場所を決めるため、慶応元年一月二十七日、大久保等は長崎に上陸した。
この頃、長州から福岡の太宰府に移され公卿は、ふたたびこの公卿の冷遇が鹿児島にいた西郷翁に伝わり、翁等一行は二月中旬鹿児島を海路にて出航し、長崎を経て太宰府に着く。当時、薩摩の武士達は長州に直行する時は鹿児島から長崎港と平戸の前を通り、佐賀沖を経て太宰府・長州と海路にて行き来していた。
慶応元年二月中旬から三月十八日までの間に集結をかけられた各藩の勤王党は、西郷南州翁および勝海舟等とともに世界の情勢に明るいフルベッキ博士を訪問した。すでに門下生となった志士達と、我が日本の統一をどうしたら良いか、王政復古とは何か、王政復古後に何が来るかをフルベッキ博士を交え、相互して議論し合った。
この写真の中に、薩摩の欧州行き留学生の一部の者もおり、また、済美館の前身、仮語学所が慶応元年正月、江戸町に建った記念とが重なり合い、コンセンサスのもとに上野彦馬写真スタジオでフルベッキ博士の子供も交え和やかな雰囲気で記念撮影された。
明治二十八年にこの写真が出現したが、何故に西郷翁・勝海舟等が写されている事を公表できなかったのか、この写真を「太陽」に掲載した戸川残花も言っているように、慶応年間の事跡は政界の一部分の勢力に圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として、事件があった年代順に示唆で公表した。このため現在までに分からなかったのである。
この写真はフルベッキ博士が宗教記録として所持し、絶対に手放さなかったものであるが、明治二十年代の宗教家で歴史家でもある戸川残花の強い要請により借り受けたものである。
「フルベッキ写真」には又別の驚きがある。フルベッキ博士の前方に岩倉一家と共に、当時14歳の「後の明治天皇」が被写体となっていることである。しかし、孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が、朝廷のある京を離れて「刀と丁髷」姿で討幕派志士達と共にいること自体が奇妙過ぎる。この疑問をどう解くべきか。現在脚光を浴びつつある「明治天皇すり替え説」をもってすれば解け、被写体は「大室(寅之祐)」とすれば辻褄が合う。「フルベッキ写真」は、そういう動かぬ証拠を撮影しており、「この写真はフルベッキ博士が宗教記録として所持し、絶対に手放さなかったものである」理由も分かる。
こうなると「フルベッキ写真」はとてつもない衝撃性を帯びていることになる。1・「明治天皇すり替え」の背景にフルベッキの策動があったこと、2・幕末維新、明治維新の英傑がフルベッキに踊らされていたこと、3・幕末維新、明治維新がフルベッキ派の筋書きと指導の下に完遂されたという動かぬ証拠になる。「フルベッキ写真」の考証は「フルベック写真」その他に任せるが、否定するにせよ肯定するにせよ存在自体は動かせない。はるか歴史を照射しているというべきだろう。
ワールド・フォーラム代表幹事/佐宗邦皇氏の2005.5.10日付け投稿「明治維新の真実 : 明治維新史を塗り変える歴史の真実/岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅と伊藤博文」は、次のように記している。
ここに、阿修羅読者諸兄にはお馴染みの幕末長崎の上野彦馬のフォトシタジオで撮られた、後の「明治新政府の元勲達」のほぼ全てを網羅した「謎のフルベッキ写真」がある。
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/503.html
その中心に息子の長男ウィリアムと共に鎮座する米国系無国籍ユダヤ人フリーメーソンのフルベッキが後の明治天皇(大室寅之祐)の後方隣に写っていた。この写真の存在は、この佐賀藩の英語塾「致遠館」の愛弟子の「伊藤博文」率いる明治新政府は、ひたすらこの写真の存在と真相を隠し続けて否定し続けた。また、明治天皇の正体と明治維新の真相も封印されたのである。後に明治2年に明治新政府により招かれて、新政府顧問となり兵制や学制ら明治新政府の屋台骨の重要な制度の創生を任された最高最大の新政府の功労者で最初のお雇い外人フルベッキこそが、後の「岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅」の発案者で仕掛け人であった。その主人公とその愛弟子達が実行した「岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅 」の真相に迫ります。
「フルベッキ写真」という謎の後の明治政府の元勲達の集合写真が残されていて、幕末の長崎の上野彦馬のフォトスタジオで撮影され、その中心にオランダ系無国籍ユダヤ人のフルベッキというキリスト教伝道師・英語教師が写っております。その後、明治新政府顧問として初期の新政府で大きな役割を果たしました。そのフルベッキこそが、岩倉欧米派遣使節団の派遣の主唱者でありました。岩倉はじめ旧佐賀藩士大隈重信や旧長州藩士伊藤博文ら旧佐賀藩英語塾「致遠館」の英語教師フルベッキの愛弟子達が、岩倉欧米派遣使節団と明治新政府の原点であります。