[竹下雅敏氏]北朝鮮、創価学会、大本教、そして笹川良一などが同じ一族だとわかる系図 ~日本を裏支配している陰謀の中枢~
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=106841
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この系図は誰が作ったのかわかりませんが、見たところ正確だと思いました。
系図の出典と共に、記事部分も抜粋して掲載しています。
これを見ると文章に一貫性が無く、所々矛盾した記述が見られます。
おそらくいくつかの文章を繋ぎ合わせ、その間に自分の意見を差し挟むような文章構成になっています。
本来、どこまでが引用でどこからが自分の文章なのかがわからないこうした表記の仕方は問題があると感じています。
全てが自分の文章でない以上、出典を明らかにすべきだと思います。
この記事の原典ではないかと思われる文章を引用しています。
その他、堀川辰吉郎に仕えていた人物が誰かもわかるはずです。
こうした連中が日本を裏支配している陰謀の中枢であるのは、もはや明らかではないでしょうか。
転載元より抜粋) blog-imgs-63.fc2.com 14/3/22
http://blog-imgs-63.fc2.com/a/i/o/aioi/20140321232813510.png
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上田吉松の子が、
孫が大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎)、
その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。
この時、イ子に接近していたのが上田音吉。
双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。
初代の上田吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。
「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出す。
穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。
海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。
これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。
さらに、古くからオランダ取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。
幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。
渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。
いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げるのである。
吉松の没年は、伝えられている明治初年とは大違いで、本当は大正年間まで長生きしたのである。
悲しき秀才 さんのコメント...
ご存知の方が多いと思いますが、混乱される方がいるとまずいので念のため。
「上田吉松」は二人います。
初代と二代目。
「初代吉松」は元から上田家で、妻は宇能(中村孝道の姪)。
この「初代」と宇能の間に生まれたのが世祢(よね)で、この世祢のところに婿(養子)として ??
5歳の時にやってきたのが「二代目吉松」。
戸籍では船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次男。
世祢が産んだのが上田喜三郎(出口王仁三郎)。
「初代吉松」と中村孝道の関係などは、大本サイドからの文献では全くたどれないみたいです。
その父の久兵衛に関しても同様。
で、「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出します。
で、何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松を婿に迎え (以下略 )
その後も突然大本を訪問したり。
私の専門分野でしたのでつい長文になりスミマセン
2007年7月18日 2:36
(以上転載終了)
上田藩にも幕末の志士がいた。赤松小三郎。坂本龍馬より先に議会政治を提唱した人。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%B0%8F%E4%B8%89%E9%83%8E